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グーデンホーフ光子の生涯・子孫【異国へ嫁いで伯爵夫人になった明治女性】

 
グーデンホーフ光子 生涯・子孫
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monachan
バンクーバーでカナダ人の夫&二匹の猫ボーイズと、バンクーバー生活を満喫中。 1990年9月より、ボストンで会計学を学び、会計の仕事でアメリカを東から西に転々と移動。 2000年7月に、仕事でバンクーバーに移住することになり、今日に至ります。バンクーバー情報から、海外移住、海外生活の情報・お悩みにお答えするブログをお送りします。 【地球の歩き方・特派員ブログ】で、「バンクーバー特派員2(みやなお)」として、バンクーバー情報を発信中。
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“クーデンホーフ光子”という女性のことをご存知ですか?

今から約100年以上前の、明治時代のはじめに、スケールの大きい”とんでもない”人生を送った日本人女性なのです。

ヨーロッパ王室や貴族に興味がある方なら、一度は名前をお聞きになったことがあるかもしれないですね。

クーデンホーフ光子と言えば、

・日本政府に届け出された正式な国際結婚の第一号
異国へ嫁いで伯爵夫人になった明治女性
・当時ウィーン社交界で人々の注目を集めた「黒い瞳の伯爵夫人」
・EUの母

として知られています。

今日は、このグーテンホーフ光子という女性の”スケールの大きい生涯”と、子孫について書いてみたいと思います。

それでは始めてみましょう〜♪

グーテンホーフ光子の生涯

 

グーテンホーフ光子は、どんな明治女性だったのでしょうか?

クーデンホーフ=カレルギー光子、旧名:青山 みつは、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の妻で、パン・ヨーロッパ運動によりEUの礎を築いたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の母。そのため「パン・ヨーロッパの母」と言われ、現代においては「EECの母」と言われる。(1874年7月24日 – 1941年8月27日)

<引用 ウィキペディア>

 

それでは、グーテンホーフ光子が、ハンガリー帝国の貴族の妻になった経緯というのは、どういうものだったのでしょうか?

 

グーテンホーフ光子は日本のシンデレラ

 

明治維新の頃、クーデンホーフ光子(青山みつ)は、東京府牛込で骨董品屋を営む青山喜八と妻・津禰(つね)の三女として生まれました。

父は青山喜八といい、骨董商を営む大地主で、今日の東京の青山という地名は、この家の苗字が由来であったそうです。

1892年(明治25年)、当時のオーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理大使として東京に赴任してきたハインリヒ・クーデンホーフ伯爵に見初められ、大使公邸に小間使いとして奉公するようになります。乗っていた馬が凍った道で転んで落馬し、当時18歳の日本人女性青山みつに助けられたことが馴れ初めだったと伝えられています。

みつは、貴族でもある外交官と結婚した町娘。まさに「日本のシンデレラ」と呼ばれるような状況になりました。

・日本政府に届け出された正式な国際結婚の第一号
異国へ嫁いで伯爵夫人になった明治女性

グーデンホーフ伯爵と結婚したことで、みつは、思いもかけなかった人生を歩みだすことになるのです。

 

クーデンホーフ光子身長

 

グーテンホーフ光子は、当時の日本人には珍しい八頭身の東洋美人でした身長ははっきりとはわかりませんが、写真を見る限り、洋風も似合い、首が長くすらっとした印象があります。舞姫をしていたこともあり、立ち振る舞いが非常に優美であったと伝えられています。

Mitsuko Coudenhove 1 cropped.jpg

By 不明http://www.law.tohoku.ac.jp/~tozawa/RCK%20HP/mitsuko1.htm, パブリック・ドメイン, Link

 

みつとハインリヒ・グーデンホーフ伯爵の結婚

 

みつとハインリヒ・クーデンホーフ伯爵の結婚に、周囲は猛反対。青山家は骨董屋を営む大地主の家で、「国際結婚第一号」に対して大反対。ハインリッヒ家も由緒ある伯爵家ということもあり、東洋の異教徒の娘との結婚に猛反対しました。

1893年、周囲の反対を押し切って、青山みつはクーデンホーフ伯爵と結婚します。

残された書類は、東京府(当時)に届出された初の正式な国際結婚ということを示しています。ただ、この頃の国際結婚は外国人にあてがわれた現地妻という認識が強かったため、光子は実家から表向き勘当されています。

みつ(光子)は日本在住のフランス人カトリック神父リギョール(Francois A. Ligneul)のもとで洗礼、告解、堅信式を行ったと言われます。

グーテンホーフ伯爵は長身で精悍な顔つきのなかなかの美男子でした。⬇️は、光子とグーデンホーフ伯爵の結婚式の写真。18歳の光子のあどけない表情。

Heinrich Coudenhove-Kalergi Mitsuko Aoyama.jpg
By 不明 – internet, パブリック・ドメイン, Link

1893年9月16日長男ヨハン(光太郎)、1894年に次男リヒャルト(栄次郎)の二子を儲けます。次男リヒャルトは長ずるに及んで欧州統合を提唱し、欧州連合の理念の先駆者となりました。

夫のハインリヒに帰国命令がでて、二人の息子(光太郎・栄次郎)をつれて遠い異国の地に旅立つことになりました。

日本を離れて、欧州で新しく生活を始めることに関して、みつは大変な不安を持ったことでしょう。

日本のシンデレラが王子に見初められて、「めでたし、めでたし」と締めくくられたわけではないのです。欧州にて伯爵夫人として生活するようになり、みつが歩んだ苦難の道を、この後で書いてみましょう。

 

日本を離れて、欧州での新生活

 

外国人外交官と正式に婚姻を結んだ日本女性だったため、旅立ちの前に、光子は明治皇后(のちの昭憲皇太后)に拝謁を許され、特別にお言葉を賜ったと言われます。「どんな場合にも日本人としての誇りを忘れないように」という内容の言葉でした。

夫のハインリヒの領地ボヘミアのロンスペルク城へ向かうため、神戸から船旅が始まりました。光子夫妻には、日本女性二人が、乳母として同行しました。神戸から始まった船旅について、子供たちに書き残している手記が有名です(『クーデンホーフ光子の手記』)1896年3月、ついに欧州に到達。

クーデンホーフ・カレルギ-家の領地はオーストリアのボヘミア地方にあり、一家はそこのロンスベルク城で充実した日々を過ごし、次々と5人の子供が生まれました。

 

グーテンホーフ光子の試練

 

グーテンホーフ光子の欧州での新しい生活は、伯爵夫人という華やかなポジションにありながら、苦労は計り知れないものでした。

新しいヨーロッパの社交界で、「東洋人、しかも平民の娘である光子」が周囲と馴染み・溶け合うには、かなりの時間がかかったと考えられます。

クーデンホーフ一族は極東アジアからきた東洋人である光子を奇異の目で見ていました。ハインリヒは「光子をヨーロッパ人と同等の扱いをしない者とは決闘をする」と言い、光子を守ろうとします。

光子のすること為すことすべて『言葉から食事のマナー・衣服の着こなし・立ち居振る舞いなど」、周囲からチクチクと観察され、いじめられたという話もあります。

ハインリヒは子供たちが完全なヨーロッパ人として成長することを望み、日本人の乳母を帰国させ、光子に日本語を話すことを禁じました。

光子は日本について話したり心を打ち明けられる人間がいなくなり、強烈なホームシックにかかってしまいます。今現在の、インターネットがあり、世界中のニュースが手に入り、SNS等で自国の人間とクリックひとつで連絡が取れる時代とは違います。日本との繋がりがなくなり、周りに日本人がおらず、どれだけの疎外感と戦っていたことでしょうか。

18ヶ国語を理解し、特に哲学に関しては学者並みの知識を持つ教養豊かなハインリヒと、尋常小学校を卒業した程度の学力しかない妻とでは教養のレベルの差がありすぎました。

光子も渡欧後に自分の無学を恥じて、歴史・地理・数学・語学(フランス語・ドイツ語)・礼儀作法などを家庭教師を付けて猛勉強したのでした。その光子の頑張りには、子供も感銘を覚えた言われています。例として、次男のリヒャルトは、自伝でこう回想しています。
「母は一家の主婦としてよりも、むしろ女学生の生活を送っていて、算術、読み方、書き方、ドイツ語、英語、フランス語、歴史、および地理を学んでいた」。

モナちゃん
光子は、自分で勉強する努力を欠かさなかったんだね、偉い、偉い

Mitsuko Coudenhove 2.jpg
By 不明http://hinemosuroko.blog70.fc2.com/blog-category-14.html, パブリック・ドメイン, Link

 

グーテンホーフ光子が、夫に先立たれた後の人生

 

1905年に日本が日露戦争の勝利にして、国際的に地位が高まり、光子への偏見も和らいでいきます。光子は「黒い目の伯爵夫人」として、社交界の花形となりました。

しかし、翌1906年5月14日にはハインリヒが「心臓発作を起こし急死」するという不幸が光子を襲いました。光子は、まだ32歳という若さで、3歳から13歳までの七人もの子供を抱えて、文字通りただ一人、異国に取り残されてしまいました。

モナちゃん
光子は静かな東洋の女性のイメージを打ち破って、戦いを始めたんだよ

ハインリヒの遺産は全て光子が相続するように遺言がなされていたものの、一族が財産を巡り訴訟を起こすが、光子は自ら法律書を読み法律の勉強をしてこれに勝訴します。彼女は高等教育は受けていませんでしたが、自ら運命を切り開いていける頭の良い女性でした。

以後、夫の遺産を相続し、伯爵夫人として簿記などを勉強し家政を取り仕切りました。そして、財産を処分しウィーンへ居を移し、子供たちにウィーンの名門校で教育を受けさせたのです。

1914年に始った第一次世界大戦では、オーストリア=ハンガリー帝国と日本は敵国として戦うことになり、光子への差別は強まった。しかし、彼女は「3男ゲロルクを最前線で活躍させて欲しい」と司令官に申し出て、司令官はこの姿に感動し、最大の賛辞を彼女に贈りました。
光子自身も3人の娘を連れて、赤十字社を通しての食糧供出に奔走したりして、辛い時期を乗り越えます。

第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊して、クーデンホーフ=カレルギー家も過半の財産を失ってしまいます。光子はさらに、1925年に脳溢血により右半身不随となるなど不幸な生活を送ります。

その後はウィーン郊外で唯一の理解者であった次女・オルガの介護を受けて、質素ながら穏やかな暮らしを送るようになります。そのころの唯一の楽しみは、ウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や本を読むことであったということでした。

1941年8月27日、第二次世界大戦が勃発する中、光子はオルガに見守られながら息を引き取りました。享年67年でした。

母国日本に帰ることを選ばず、子供たちを立派なオーストリア人―ヨーロッパ人―として育てる決意をした光子。子供たちは立派なヨーロッパ人に育てあげたましたが、自分自身は異国の地で独りで戦い続けた光子。異国の伯爵夫人になって、シンデレラ人生を生きた光子は、常に気を張って生きてきたのでした。

光子は、一度も日本に帰ることはなかったのです。どれだけ、日本に戻りたかったことでしょうか。

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グーテンホーフ光子とゲランの香水ミツコ

 

ゲラン社の香水「Mitsouko」はクーデンホーフ光子に由来するわけではありません。しかしジャック・ゲランが1919年にこの香水をパリで製作した際、クーデンホーフ光子の名前を知らなかったということはなかったでしょう。

当時、ヨーロッパでは日本人女性ミツコの名前は有名になっていて、フランス人作家クロード・ファーレルの小説「ラ・バタイユ」のヒロインも「ミツコ」と名づけられました。ジャック・ゲランは『この小説のヒロインである「ミツコ」をイメージし、香水の名前を「ミツコ」とした』と語っています。

つまり、ゲランの香水ミツコは、「日本人女性の神秘性と美しさを香水であらわした」ものなのです。特にウイーンでは、この香水ブランド「ミツコ」は、クーデンホーフ・ミツコであると受け止められました。

Mitsouko.jpg
By Guerlain_bottles.jpg_: Arienne McCracken from Los Angeles, United States
derivative work: Gamaliel (talk) – Guerlain_bottles.jpg_, CC 表示-継承 2.0, Link

 

私も昔愛用したことがあるMITSUKO。日本人女性としての神秘的な美しさと勇気ある情熱的な生き方をイメージしたシプレーノート。控えめで、それでいて凛とした、気品に満ちた神秘的な香りです。

 

クーデンホーフ光子子孫

 

光子には7人の子供がいます。しかし、愛していた子供たちが光子の元から離れて行ったりして、子供との関係は円満だったとは言えませんでした。

光子は日本生まれの長男ヨハネスと次男リヒャルトを特別扱いしていたといいます。

光子の子供の中で、最も知られているのは、光子の次男、リヒャルト・ニクラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(Richard Nikolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi 1894~1972)。

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By 不明 – Rozpravy Aventina, Ročník 2/1926-1927, číslo 5, strana 55. Image, パブリック・ドメイン, Link

リヒャルトは、ウィーン大学で立派に哲学博士号を取得し、さすがの光子も喜んだといわれます。欧州統合運動のきっかけとなったパン・ヨーロッパ(Pan-Europe)思想を提唱したことで知られています。リヒャルトは、現在のEU設立の先駆者なのです。そのため、光子は「パン・ヨーロッパの母」とも称されることとなりました。

1918年に戦争が終わると、リヒャルトが舞台女優イダ・ローラントと結婚すると言い出し、光子と対立します。リヒャルトは家を飛び出し駆け落ちをしてしまいます。光子は”卑しい女優業”のイダ・ローラントとの結婚に対して、激怒し次男を勘当してしまうのです。リヒャルトの晴れがましい博士号授与式には、イーダとの同席を拒んで光子は出席しなかったと言います。

リヒャルトは、アメリカ映画「カサブランカ」に出てくる反ナチスの指導者ビクターのモデルとも言われています。「カサブランカ」の中では、アメリカ人男性のリック(ハンフリー・ボガート)が、パリが陥落する前に理由を告げずに去った恋人イルザ(イングリッド・バーグマン)と、偶然の再会を果たします。イルザの夫が、ナチへの抵抗運動の革命家である夫ラズロであり、それがリヒャルトがモデルになっていると言われています。

長男ハンスも、裕福なハンガリー系ユダヤ人の一族出身でオーストリア=ハンガリー帝国最初の女性パイロットリリー・シュタインシュナイダーと最初の結婚をし、のちに女優ウルスラ・グロースと再婚しました。

三女のイダ・フリーデリケ・ゲレスは、のち作家として成功しました。長女のエリザベートはオーストリアの独裁者エンゲルベルト・ドルフース首相の秘書を務めていたが、この首相はナチスに殺されました。

次女のオルガは、最後まで母の理解者でした。右半身不随になった母を看取ったのもオルガでした。

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グーデンホーフ光子の手記

 

オーストリアの伯爵ハインリッヒ・クーデンホーフに見初められ結婚、欧州に渡った東京の町娘光子。夫の急死により三十二歳で寡婦になった光子は、女手ひとつで七人の子を育て上げ、“黒い瞳の伯爵夫人”と称せられる。本書は死の直前まで綴った手記で、編者(シュミット村木眞寿美)により初めて日の目を見た貴重な記録です。

【目次】
1章 さよなら東京ー東京~ハイデラーバード(故郷にお別れ/香港でまず手紙を/シンガポールは夏 ほか)/

2章 パパの思い出(函館経由で「エゾ島」旅行/私の母/頂上の月 ほか)/

3章 ヨーロッパへーアデン~ロンスペルク(ボンベイからアデンへ/パパの叔母さん/アデンの港 ほか)

【著者情報】
シュミット村木眞寿美(シュミットムラキマスミ)
1942年東京都生まれ。早稲田大学大学院修了後、ストックホルム大学に留学。69年よりミュンヘンに在住して執筆活動を行う。

 

 

最後に

 

グーテンホーフ光子が”とてつもない人生”を歩んできたことは、詳細を知れば知るほど、想像を超えるものであったことがわかります。

・ヨーロッパの貴族と結婚(当時の日本は貧乏で未開な小国と思われており、平民出身・人種差別で、ヨーロッパ貴族社会という華やかな世界の中で、光子に対する圧力は強かった)
・日本人でただ1人、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世⬇️と会話した人物

Emperor Francis Joseph.jpg
By Koller Tanár Utódai – https://www.theglobeandmail.com/news/wwi-throwback-reliving-moments-leading-to-the-great-war/article19361566/, パブリック・ドメイン, Link

ミツコは自分に課された運命を、最初から最期まで、勇気と誇りをもって、美しく生き抜いたのでした。光子はウィーンのヒーツィングにあるクーデンホーフ家の墓に葬られ、今も静かに眠っています。

+++

本日のインスタ写真。

阪急梅田9fにある、”かんみこより”でお茶。私はグルテンフリー&糖分カットの生活を目指していますが、あまりの肉体・精神的疲労に勝てず、”噂のどら焼きセット”を食べることになりました、笑。疲れも一挙に吹っ飛んだ!

これは本当にオススメです。どら焼きには、あんことクリームが添えられて出てきて、それを自分で好きなだけ食べることができます。

 

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バンクーバーでカナダ人の夫&二匹の猫ボーイズと、バンクーバー生活を満喫中。 1990年9月より、ボストンで会計学を学び、会計の仕事でアメリカを東から西に転々と移動。 2000年7月に、仕事でバンクーバーに移住することになり、今日に至ります。バンクーバー情報から、海外移住、海外生活の情報・お悩みにお答えするブログをお送りします。 【地球の歩き方・特派員ブログ】で、「バンクーバー特派員2(みやなお)」として、バンクーバー情報を発信中。
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